DEBATING PROCREATION IS IT WRONG TO REPRODUCE?


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この本は、デイヴィッド・ベネターとデイヴィッド・ワッサーマンという方が出産の倫理について議論している本みたいです。

私自身は英語さっぱりなのでいろんな方々に手伝ってもらいながら訳してみました。

おかしい箇所があれば指摘してもらえればありがたいです(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)


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生殖の倫理について議論する本の読者達は、その本は出産が時々許されるものだという仮定に基づいているかもしれないと考えても仕方がないだろう。
そしてそれからその読者達は出産が道徳的に受け入れられる、受け入れられない条件について議論するだろう。
実際私たちはもっと基本的な問題について討論するものとする。それはすなわち出産というものが道徳的に正当と認められるかどうかということについてだ。

この問いには2つの答えしかない。すなわち「はい」と「いいえ」である。
これらは大まかに言って、私たちがそれぞれ弁護する見解である。
そして、それぞれがどんな見解を持っているかというと、出産は決して道徳的に許されないと主張しているデイヴィッド・ベネターを擁護する意見を私たちそれぞれ持っていたり、一方、出産は時々道徳的に許されて、子供を作り出すということでポジティブな価値になりうるということを主張しているデイヴィッド・ワッサーマンを擁護する意見もある。

しかしさすがに、出産の倫理に関する意見はとても多くある。例えば出産は時々許されるという意見は実際……

 


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2ページ目♡

「時々」という言葉に覆われている領域の範囲。子供を産むことが時々道徳的に許されるということはどれくらいの頻度でそれが許されるかという質問をオープンにしたままにする。
大いに許されるという意見もあればそんなに許されないという意見もある。

ワッサーマンはこれらの意見のいくつかを調べて、いつ子供を作り出すことが許されるかというある一つの理由を擁護している。
私たちがそれぞれ取る立場は対称的なものではない。
ベネターは、様々な反論に対して答弁しているが、ワッサーマンは一つ一つに返答しているわけではない。

ワッサーマンの説明はほとんど主流の意見よりも許容されているが、他の一人一人の人間に悪いことをするのと同様に生み出される子供に悪いことをしたり傷つけたりするの(たぶん虐待などのこと?)を根拠に、出産というものが決して責められたりしないという意見を拒否している。

私たちの2つの見解のあいだにもう1つ別の不調和がある。それは、圧倒的に多数の人々が出産は一般的に道徳的に許されると考えるのと、彼らの多くはその逆を示唆するどんな主張にも憤慨する。

したがって、一般的な見解を擁護するワッサーマンは広範囲に及ぶ支持がある。
一方でべネターはとても多産の牛を非難する。

後者の著者はそれ故に''異端''を擁護するというしんどい仕事を抱えている。
隠喩的な表現をしてみると、私たちは二人ともDavidだが私たち2人のうち1人だけが「ゴリアテ」を攻撃している。(これは聖書でダビデ(David)がゴリアテという巨人と戦って倒すという話に例えて、ベネターもワッサーマンも同じデイヴィッド(David)だけど、一般の見解と戦うのはベネター人だよ、という意味だと教えてもらいました♡)

したがって、人々を納得させるという観点から少なくともべネターは”証明をしないといけないという大きな負担を抱えている”。
とは言っても彼は出産の害を考慮に入れると倫理士の負担を抱えているものこそが出産の擁護者だ。ワッサーマンが擁護する特定の意見は異端ではないけれどそれは少なくとも正統的ではない。

 


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プロナタリスト(出生主義者)の多数派とは違って、ある人がもっと幸せな赤ちゃんを産めると思っていたのに不幸な赤ちゃんを産んでしまう。または、障害がない赤ちゃんを産めると思っていたのに障害のある赤ちゃんを産んでしまうことは、ある程度間違ったことだという考えに対して彼は拒否している。

幸せでない子または障害のある子を選んでしまうことに問題があるということに同意する一方、これから親になろうとしている人にとって抱えるだろう様々なもの、たとえば、そのような子供(幸せでないまたは障害のある子供)を選ぶことにはまた問題があると主張している。

彼はまた、これから親になろうとしている人達が子供を産むという意図や動機は、自分達の行動の許容度に影響を与えうると主張している。(この辺さっぱりわかりませんごめんなさい🙏)

べネターとその賛同者に対して彼は次のように主張している。

「子供のためにという理由でこれから親になろうとしている人が子供を作ることは完全に道理に適っている。実際これから親になろうとしている人はそのような意図で子供を作るべきだ。」

と。

私達のどちらも以前、出産について書いたことがあり、読者たちは私たちがここで述べていることと以前述べたことは何がどのように違うかを知りたがっている。

第1章での価値哲学論はべネターの前著「BETTER NEVER TO HAVE BEEN」を読んだ人達にとってすごく馴染みの深いものになるだろう。

しかしながら一方では、その主張はそこ(前著)でより完全に提示された。この本では単にそれの概観(あらまし)である。これは、今の本が何を意図として書かれているかをより広い読者層に対して使宣を図るためである。

それにもかかわらず、第1章での専門的な主張で気力をくじかれた読者たちは、第1章の次の議論に飛ばしていってしまうことがある。

生活の核となるものという議論が前著BETTER NEVER TO HAVE BEENの中でまた書かれているが、それは同じ分野を正確にはカバーできていない。それはすなわち以前述べられた主張のいくつかの詳細が省略されていることにある。しかし他の方法でその主張がここでは繰り広げられている。たとえば危険因子のある主張……

 


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人生に悲観的、生きているのが嫌という議論の中では「生まれてこない方が良かった」ということを明らかに示していない。しかしそれは、子を作らない方がいいというアンチナタリズムの結論をとても支持している。

パート1の結びの章では、出産を支持するいくつもの考察が説明されている。そしてこれは、前の章で述べられた進歩的なアンチナタリストの議論を上回るのには十分ではないとも主張している。

要約すれば、パート1での議論はAN(アンチナタリズム)に関する明確で理解しやすい言葉で構成されている。

パート2では、ワッサーマンは出産に関する条件付きの答弁をしている。彼の答弁はいくつかのANの主張の批判から始まっている。彼は、べネターにフォーカスしているがまた、2人の他の作家について考察している。

1人目の作家はシーナ・シフリン。彼女は、出産とは思いもよらない害をもたらすということで道徳的に問題があると主張している。

2人目はマッティ・ヘイリーで、全ての子供は様々な現実にありうること、起こりうることに直面していて、容認できない危険に直面している。と主張している。

すなわち、各場面においてデイヴィッド・ワッサーマンはかなりの害をもたらす確実性と酷い人生をもたらす可能性があるにもかかわらず子をもうけることは許されることができるという主張をすることで、ANの主張を全面的に拒否している。

彼は、出産は常にその生まれてきた子に危害を加えると言うべネターの倫理学の主張を詳細には取り上げていない。そのさらなる専門的な議論は大きな─────

 

5ページ目に続きます。読んでくださりありがとうございました(❁ᴗ͈ˬᴗ͈))